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魔王城の中心部分は吹き抜けになっており、そこには緑の庭園が広がっていた。
土地の面積自体は決して広くはなかったが、魔王が手ずから世話をし、頻繁に出入りするお陰で、足を踏み入れると空間はぐにゃりと曲り、果てしもなく広く美しい景観を見せた。
中央を流れる川は三方に伸びて、サラサラと清水が流れていく。芝は青々と濡れ、花がいくつも咲き乱れた。川の畔では林檎の樹が、白い花を咲かせて豊かに繁っているのも見えた。
ざわざわ、風が鳴る音が響いていた。言葉にできないような、肺を抜ける甘い香りが漂っていた。
しかし、この庭には魔王の深い愛情が込められていたから、普通の悪魔や魔族が立ち入ると、目を回して倒れてしまう。
赤や白の花びらが揺れる様を見上げていると、幸せな気分になって、二度と正気には戻れなくなってしまう。
聞こえない筈の歌が聞こえたり、見えない筈の美しい夢が見えたりしてね。
魔王は、他の誰も、自分の愛に耐えられないことはわかっていたから――しかし時折、美しい少女や青年を招いては、一緒に踊って、幸福に溺れて狂っていく様を見て楽しむことはあったけれど――いつも一人で庭を散歩したり、花や樹の手入れをして、ささやかな慰めを得ていた。
ある日、魔王はひときわ大きくて立派な、赤く熟れた林檎を一つ採り、彼の城に持ち帰った。
魔王には、自身の部下や魔界の住民となる「悪魔」達を、自由に生みだす力があった。その素材は何でも良かったが、魔王は特にその日の林檎を気に入った。
魔王は林檎を二つに割った。林檎は蜜が充ちて果肉が締まり、じわりと溢れた果汁は琥珀色をしていた。
己の指先をナイフで薄く切り、二つの林檎に判を押すように、一度ずつ指を押しつけた。
魔王の血の色は、赤でもなく青でもなく、黒でも金色でも銀色でもなかった。視覚できないその色は、音も無く果実の内側に溶けて消えていった。そして魔王は林檎を再び一つにくっつけて、それを中庭の端、湖の近くに埋めた。
魔界の青い月が三度昇り、沈んだ。
黒く濡れた土のなかから、一羽の、黄色いカナリアが顔を出した。羽に絡まる重たい土を振り落とし、湖のそばで水浴びをした。
魔王は、土から生まれた彼の姿を見つけて、嬉しそうに駆け寄った。呼び寄せると、カナリアは不器用に羽を震わせ、声の方へと小さく撥ねた。返事をしようと鳴く声は、楽器のように美しく澄んでいた。朝の空気をのびやかに泳ぎ、風と共に踊った。
「お前の歌は、すべらかな雨の糸のように美しい。お前に、レイニー・デイという名をやろう」
カナリアの悪魔は魔王の掌の上に乗り、与えられた名に報いることを誓って飛んだ。彼の喉には、魔王の愛が宿ったのだろうか。彼の声は、空気に銀の光を散りばめ、震わせた。その歌声は、遠い城下町にまで響いた。
しかし、程なくして彼は歌を途中で止めてしまった。飛んでいる最中に、樹の峰にぶつかって落ちてしまったのだ。
悪魔は再び起き上がろうとしたが、数度撥ねた直後、木の根に引っかかって転んでしまった。
魔王は、彼が生まれつき盲目であることを知った。レイニーは、すくい上げる魔王の掌に縋るようにして、羽を沈めてうずくまった。
魔王の指先があれば、彼に新しい目玉を与えてやることもできた。磨いた水晶の目でも、百里を見通す魔法の目玉でも、なんでも揃えることはできた。
しかし、魔王は己の掌に弱々しく縋る悪魔の姿を、大いに気に入ってしまった。だから治さないままにした。
レイニーもまた、それに不満を持つことはなかった。むしろ、不完全な自分を受け入れてくれた魔王に、大きな感謝を抱いていた。
レイニーは、魔王の従者として相応しくなるよう、長身の男の姿に変身した。レイニーの目は固く閉ざされたまま、しかしひたむきな忠誠を捧げていた。
魔王は、彼を庭に迎え入れる。魔王は、広い庭園の真ん中にテーブルを置き、レイニーにお茶や菓子を用意させる新たな楽しみを覚えた。
「お前はそのままでいなさい。私の傍で奏でられる歌のままで」
「はい、魔王様。――貴方が望まれる限り、私は永遠に」
彼は素直に魔王を愛する。庭に充ちる芳しい香りや、色とりどりの花の色に惑わされることもなく。ただ己を掌に乗せてくれた魔王、ただ一人を。盲目の彼が唯一確かに感じ取れる、優しくて遠い熱源を。
「いつか虹を、見せてあげるよ」
魔王はそう約束したが、それを守るつもりはなかった。
不完全な従者は魔王にとって、既に完成された人形だった。
(お前は世界を見ることもなく、私への愛のままに、幸せになるんだよ)
跪いたレイニーの頭を、魔王は優しく撫でた。
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