interval



 木々の頭上から覗いた朝陽は、金色の光をそこら中に撒き散らし、薄霧を柔らかなベージュ色に染め上げた。
 空気は甘く、風は穏やかだ。
 朝露の滴をまとった緑の草花は、小山羊のメリーにとってまたとないご馳走に見えた。蹄が濡れるのもおかまいなしに庭を駆け、幸せそうにベェェ……と鳴いた。舌先で露草を舐め取ると、もう止まらない。次から次へと、彼女は若い草を食んでいく。
「メリー!」
 突然、大声が静寂を切り裂いた。メリーは飛び上がり、ブルブルと全身の毛を振るわせる。首を持ち上げると、その視界の端に一羽のツバメが旋回するのが見えた。メリーはもう一度ベェェと鳴いた。
「ベェェ、じゃァありマセンヨォ、また寝床から抜け出して!」
 声は、そのツバメの嘴から聞こえた。彼が宙を舞うのに合わせ、音源は遠くなったり近くなったりする。メリーはすっかり怯えてしまい、両足を浮かせ、その場から逃げ出した。踊るようにジグザグに走り、花や草を踏みしだく。攪乱する目的で、こんな不格好な走りをしているのではない。単に混乱しているのだ。ツバメは、上空からそれを見ていた。呆れ果ててため息をつき、ゆるやかに降下する。ほどなくしてドンッ、という音と共に、メリーは生け垣に突っ込んで止まった。
「メリー。勝手に外に出てはイケナイと、アレほど言ったノニ」
 情けなく倒れたままのメリーの背に乗り、ツバメは言う。
「さあ、家に帰りマショウ」
 そうしてツバメは一鳴きし、軽く羽ばたいた。彼は両脚を持ち上げたが、脚のあるべき位置には棒きれのような脛がある他、?蹠も趾もなく、一切透明な空白だった。しかし感覚は存在しているらしく、彼の前を横切ろうとした落ち葉は、見えない趾に掴まれ、払いのけられた。彼は空中で優雅に一度回転し、その尾羽が周囲を回りきる前に、その同じ位置に燕尾服の立派な尾を出現させていた。風切羽はスーツを身に纏った長い腕と、黒い手袋をまとった指先になり、嘴は割れて薄い唇になった。一羽のツバメと入れ替わりに現れたその男は、切りそろえた黒髪の下で、立ち上がろうともがく小山羊を軽く睨んだ。
「メリー、何をしているんデス」
「ベェェ」
「早く変身したらいいデショウ。人間の姿にナレバ、簡単に立ち上がれマスヨ?」
「ベェ?」
 メリーは動きを止め、思い出したように両耳をピコピコと動かした。できるかな? と尋ねるような目でこちらを見るメリーに、いいから早くやりなさい、と手で急かす。メリーは頷き、意識を集中させると、グッと肺に力を込めた。途端、全身の毛が綿毛のように逆立ち、薄灰色の毛皮がもこもこと膨らんだ。持ち上げた背中は薄く平らになり、人間の子供のような滑らかな肌に変わっていく。頭部は縮こまって小型化し、体毛は細い産毛になり、その隙間から少女の顔が覗いた。両手が偶蹄目のそれではなく、人間のそれであることを確認すると、彼女は小さく伸びをし、まだ体毛に覆われ蹄のついたままの両脚で立ち上がった。
「フェイツせんせぇ、立てたぁ」
 ぴょんぴょんと跳び跳ね、にっこり笑うメリーの口元には、先ほど食べた草の切れ端や涎がついたままだった。フェイツは無言でハンカチを取り出し、彼女の口元をごしごしと拭う。メリーはなすがままで、尻尾をピクピクさせながら目を瞑っていた。
「メリー。あなたは人間に化けるのがとても下手ダ。足は山羊のままダシ、胸毛も生えっぱなし。横向きの瞳孔も、頭のツノでさえ隠せてイナイ。これじゃぁ、人間の紛れて暮らせナイシ、他の悪魔に笑われちゃいマスヨォ」
「メリー、へん?」
「変デス」
 涎で汚れたハンカチを背後に放り投げると、それはフワフワと漂うように庭を横切り、勝手に洗濯桶のなかに収まった。フェイツは立ち上がり、ほら、行きマスヨ、とメリーの背中を叩く。メリーは慣れない直立状態で、懸命に地面を捉えながら、跳ねるようにピョンピョンと、先を行くフェイツの後に続いた。


 リビングは、よく陽を浴びた干し草の匂いと、フェイツが作った豆料理のほのかな香りに満たされていた。メリーはいっぱいになったお腹を抱え、床に横になっていた。フェイツは食器を片付けると、椅子に座り、上着を脱いだ。続いてシャツも脱ぐ。陽を避けて暮らしたかのような肌は不健康に白く、血の気が無かった。テーブルの上の薬箱から軟膏の瓶を取り出すと、中身の半透明のクリームを指先にすくい取る。メリーはコロンと仰向けになり、テーブルの足の間からフェイツを見上げた。
 傷は、肩から胸へと稲妻のように横切っていた。肌の色と対照的に、その傷口は深く暗い溝のようにパックリと開き、しかし膿むでもなく、ただ硬い亀裂のように口を開けていた。その奥をじっと覗くと、青い電流のような光がチラチラと照ったり、金属粉に似た光沢の紫色が僅かに反射するのが見えた。フェイツはその傷口を指先で閉じて、軟膏を塗り込んでいった。薬は傷口から内部へと浸透していったが、硬質化した切断面にどれほどの効き目があるのかは定かではなかった。
「先生、ケガしてる」
 メリーは這うように彼の足下に近づき、その爪先に顔を当てた。フェイツはちらりと足元のメリーを見たが、すぐに目線を手元に戻した。
「ええ」
「痛い? 平気?」
「平気デス。歳をとるとネェ、ろくずっぽ痛みも感じなくなるんデスヨォ」
 彼は独特の掠れ声でそう返し、薬を塗り終えた。傷の表面を軽く撫でると、はみ出した軟膏の尻尾が糸のように持ち上がり、フェイツはその糸を指先で操って傷を縫った。透明な筋があっという間に傷を塞ぎ、縫い痕さえ肌と同化したが、盛り上がった皮膚の膨らみまでは隠し切れなかった。フェイツは不満そうに唇を曲げていたが、メリーが今も自分を見上げていることに気づくとすぐにシャツを着て、傷を隠した。
「メリー。立ち上がって食器を洗いナサイ」
「エーー!」
 立ち上がる、という指令だけは真っ先にこなした。食器を洗う、という点に関しては駄々をこねたが。
「せんせぇさっき洗ってくれたぁ」
「僕様が洗うのは、自分の分だけですカラ」
「魔法でちょちょいってしてた」
「あなたも魔法を覚えれば楽デスヨ」
「メリー魔法しらない。メリーお仕事やだぁ」
「ちゃんと先生の言うコト聞かないと、夜の干し草を全部濡らしマスヨ」
 メリーはなおもぐずぐずして、床を転げ回ったりクッションに抱きついたりしていた。その隙にフェイツは二段になった薬箱の端の、細長い瓶を取り出し、前歯で硝子の口を折ると、あっという間に飲み干してしまった。氷を喉に流し込んだような冷たさと痛みが広がり、食道を一瞬で通り抜け五臓六腑にまでビリビリとした痺れが駆けた。苦し紛れに息をすると、その煙が群青色に立ち昇る。手の中で小瓶を音もなく砕くと、一瞬で、薬箱を屋根裏に飛ばした。
「……うう〜〜〜ん、わかったよぉ、メリーも働くぅ」
 ようやくメリーが顔を上げた頃、フェイツは疲れ切って椅子に背中を預けていた。
「……勤労意欲、良いことデス」
 危なっかしい手つきで、熊手代わりのフォークや、草を満載するためだけに使われた大型のバット、「食生活の充実の為に」と押しつけられた煮豆用の小皿を重ね、フラフラした足取りで流し場に向かうメリーを見送る。
 鼻先まで、痛みが残っている。肉体を構成している組織の一つ一つが小さくスパークしたかのように、落ち着かない。ぐったりしながら、額に滲んだ汗を拭う。
(もう、薬の備蓄が切れそうだ)
 魔法薬によって肉体の内部が焼け爛れるのは、体の老朽化が予定よりも早く進んでいるということの、なによりの証拠だった。地上で千年以上暮らしてきて、ついにボロが出たのだろうか。今までは、地上に存在するわずかな精気を吸い取ったり、人間の邪気を吸収することで生き存えていたきた。だが今回の大怪我により、辛うじて繋ぎ合わされていた細胞の糸が、ほぐれて緩んでしまったのだ。
(削り取られた肉体組織を補完するための薬で、体の他の箇所がやられるのだから、全く老いというのは恐ろしい)
 自嘲し、サイドテーブルに置いてあったティーカップを引き寄せる。糸で吊られたように、ティーカップは独りでにフェイツの手元に収まった。もっとも美味なる温度で固定されていた、湯気を伴う金茶色に満足し、その匂いを吸い込みながら一口味わった。
 キッチンの洗い場から、ガシャン、という鈍い音が響いたのは、フェイツが縁から唇を離したのと同時だった。
「……プラスチック製の食器を渡しておいて、よかったデスヨ」
 ため息混じりに苦笑し、立ち上がる。


 少女悪魔メリーバッドは、人間の魔法使いの手によって生み出された。
 その作り手たる男が死んだ今、彼女には居場所がなく、まして生きる理由さえない。悪魔としての矜持も知識も能力も持たず、中途半端な存在だった。醜いとさえ思えたが、同時に哀れでもあった。
 フェイツは、少女に時間を与えてやることにした。
「さあ、ここが今日からあなたの家デス」
 そう言って少女を連れ帰った夜から、もうすぐ四日。腕の中で眠っている少女をソファに下ろし、その寝顔を覗いた。あどけない、何も知らない、何も持たない少女だった。彼女の半分は獣の匂いで、あともう半分は、あの男の匂いがしていた。
(これからは僕が守ってやらねば)
 胸からポタポタと流れ落ちる血を、木の床に滴らせながら、彼は思った。


「せんせぇ、洗ったよぉ」
 フェイツが様子を見に行った時には既に、全身の体毛を泡で膨れさせた一匹の小山羊がいた。
(人間の姿でいる練習をしろと、あれほど言ったのに)
 もはや怒る気力もない。得意げに蹄を鳴らし、フェイツの周りをぐるぐる回る度、泡や滴がそこら中に散らばるのを、ほとんど他人事のような気持ちで眺めていた。
「……アー……そうデスネ。偉いデスネェ」
 教えるべきことは、一つや二つでは足りなそうだ。フェイツは腕まくりをし、喜んで跳ねるメリーを余所に、腰に手を当てて天井を仰いだ。
「次のお仕事は、台所掃除デスヨォ」
 悪魔の特権は、時間に制限がないことだ。だからこそ何でも挑戦できるし、退屈こそが最大の敵になる。確かに、しばらく退屈はしないで済みそうだ……と、口をへの字に曲げるメリーを見ながら、彼は思った。

続く…?
2014/03/13