人魚と漁師



 ギイ河川の河口部には、海から流れ込む海水が混ざった汽水域が存在した。水流が岩盤とぶつかり合い渦になる、この静かな水場には、稀に珍しいものが流れ着いた。

 漁師カカはその朝も船を出し、朝靄のなかで仕掛けた罠を確認していた。薄黄色の日差しが薄暗い空を割り、冷たい空気を色づけていた。
 網を上げると、白い腹をひるがえし、小魚が跳ねた。小さすぎて、売り物にはならない。だが胃袋の足しにはなるだろう。カカはそいつらを籠に放し、さてどう食べてやろうかと考えていた。捌いて干せば長く保つが、塩で焼いて丸ごと食うのが、彼の好みだった。
 その他のポイントも回ったが、収穫はなかった。彼は高くなりつつある日差しから遠ざかるように、青い水面に櫂を差し入れた。
 ふいに、視界の隅でゴミのような何かが浮かんでいるのが見えた。流木のようなそれの上に、数羽の鳥が止まっていた。彼らはギャアと一鳴きすると、足下のそれを啄みはじめた。
 それはゆっくりとカカの方へと流れてきた。彼は目を見張る。それは、木に掴まった人間の男だった。
 櫂で鳥を殴ると、しばらくギャアギャアと暴れていたが、次第にいなくなった。男を引き寄せる。彼は鳥に襲われたせいか、片目がなく、全身は傷だらけだった。体温も、氷のように冷たかった。その顔は血と泥で汚れていた。
 カカは眉をひそめ、首を振る。せめて埋葬してやろうと全身を見たとき、驚きのあまりその手を離してしまった。
 彼の下半身には人間の足ではなく、魚のそれが繋がっていた。青白い身に雪のように煌めく銀の鱗が、水の中で上下していた。
 手を離したためにゆっくりと沈んでいく頭を、慌てて引き戻した。そして周囲を見渡す。幸か不幸か、漁師仲間は余所の漁場に出向いているらしく、静かなままだった。もう一度人魚を見つめ、おそるおそる、心臓部に耳を近づけた。その奥では、僅かながらに、生命の脈動を感じた。
 彼は悩んだ挙げ句、肩にロープをくくり、そのまま漕ぎだした。

 古いイカダに水を張り、そこに人魚を寝かした。
 ぐったりと気絶した彼には、目を覚ます兆候さえなかった。カカは一日の仕事を休止し、人魚の世話に明け暮れた。
 生薬と油を混ぜ、湿った布をそれに浸けた。清めた傷口にそれらを張り、膿を拭ってやった。
 ちらりと人魚に目をやると、苦しそうに眉を寄せていた。やはり生きているのかと確信し、今拭いているものが、確かに魚のぶよぶよした肉なのだと思うと、心臓が高鳴り気分が悪くなった。
 人魚の血とこびりついた汚れにより水が濁ると、カカは人魚を抱きかかえて入れ替えをした。魚の半身だけでなく、人間の皮膚でさえ彼はおそろしく冷たかったが、生臭くないだけましだった。
 献身の甲斐あってか、人魚の顔色はずいぶんと良くなった。しかし、失った目玉を物欲しげに求める眼窩へと、血に誘われた蠅が寄ってくるので、カカは仕方なく布を巻いて栓をしてやった。

 そんなことが二昼夜続いたある日、カカが同じように人魚を抱き、水を捨てようとした。
「……ァアア、アアア、アアアアー」
 急に、人魚が鳴いた。驚いて突き放すと、人魚はイカダから転げ落ちて土の上に転がった。彼は胸部を押さえ、苦しそうに悶絶していた。
 カカは哀れな人魚を水の中に戻してやろうとするが、自分の指が触れるとギャンと一鳴きし、痛みに震えた。人魚と人間は体温が違う。今までそれと知らなかったが、彼にとって人間の体温は、焼いた棒のように熱いものらしい。しばらく呆然と彼を見下ろしていたが、次第にその動きも弱まりヒクヒクと痙攣するだけになった。カカは火がついたように走り出し、滑車を持ち出すと、両手に布を巻いて、慎重に人魚を載せた。川縁までたどり着くと、彼は勝手に水の中へと落ちていった。
 すでに日が暮れ、紫の影が周囲に降り注いでいた。川辺はシンと静まり返り、人魚は沈んだまま浮かんでこなかった。そのまま一〇分ほど見守っていた。ぽちゃんと、人魚が顔を出した。
 黒い水面からこちらを見ている、白磁の顔と薄青い一つ目がそこにあった。
 彼はゆっくりとこちらに泳ぎ来て、カカを見つめると、微笑みとも戸惑いともとれる表情を浮かべた。

 人魚は、カカに感謝しているようだった。
 彼は、カカの船影を見るとゆっくり近づき、船底をコンコンと叩いた。カカがそれに気づくと、新鮮な海草を投げ入れて返事とした。
 人魚の好物は海草と、地上の木の実だった。海にいた頃には貴重だったそれらを、カカは森からいくらでも取って来た。人魚は手を叩いて喜び、水面に投げ込まれるそれらを順番に食べて嬉しそうに泳いだ。
 傷の回復は著しかった。鳥に啄まれた目玉の他は痕さえ残さず回復し、それどころか肌は艶めき頬は桜色に染まり、より美しくなったようにさえ見えた。
 人魚は、カカに魚の群れる場所を教え、青く重たい立派な魚は良い金になった。舟を修理し、身なりを整えたが、その他に目立った使い道はなかった。カカは稼ぎの分仕事の時間を減らし、森の散策や人魚との対話に充てた。
 むろん、人魚が人語を解する訳ではない。人魚の喉から漏れる音は、笛の音に似ていた。特に気分の良いときは、会話そのものが一つの音色のようだった。
 カカは、赤い夕暮れのなか、沈みゆく陽を見つめながらそれらの声を聞く時間を楽しんでいた。寝そべって木片をナイフで削り、そんなカカの姿を、人魚は楽しそうに見つめていた。

 森の奥に小さな泉を見つけ、人魚を引っ越させることにした。
 村からも更に離れた辺境ではあったが、釣れないときには漁師仲間がこちらのポイントにまで近づくことがあった。人魚の存在がばれれば、おそらくは殺されてしまうだろう。もしくは、迷信を信じて肉を切られるかもしれない。
 水を張った滑車に人魚を乗せるとき、厳重に布を手に巻いたが、それでも人魚は怯えていた。構わず抱き上げると鈍い悲鳴が上がり、手を離しても滑車の中でしばらく小さくなっていた。
 真夜中だった。月が天辺に昇り、黒い影をカカ達から、木々から、縦横無尽に延ばして足跡を消していた。
 泉に着くと人魚は白い腕を伸ばし、するりと水中に潜っていった。葉や、黄色の花びらが浮かんでいる他は、絶えず湧く清水によって美しさを残していた。人魚は顔を出して、月を見上げた。
 とても満足そうだった。

 カカは、漁場と市場を行き来する生活に戻ったが、以前のように食い物屋に入り浸って安酒を煽ることがなくなった。旧友の誘いにも乗らず、仕事が終わるとさっさと自宅へ帰ってしまった。
 その日は、人魚と出会ったから四月目の事であった。カカが人魚に手を振ると、人魚もそれを真似して返事をした。
 普段であれば、カカは近くの朽ち木に座り、細工仕事をしているのが常だった。しかしカカはいきなり、両手をお椀の形にして人魚へ向けた。人魚は訝しがりつつも、常々のように彼の行動を真似して、両手を差し出した。
 その手の中に、木で出来た球が落ちてきた。その中心には目玉の模様が描かれていた。人魚の義眼だ。彼が作ってきたものが、完成したのだった。
 人魚はぱあっと笑い、泉をぐるぐると泳いだ。カカは呆れたが、同時に気恥ずかしくもあった。目玉を押し入れようと奮闘する彼から一度取り上げ、慎重に、それを押し込んでやった。ぴったりだった。
 人魚は感謝を込めて彼を抱きしめようとしたが、火傷の痛みを思い出して、手が止まった。
 カカもまた、彼の頭を撫でてやろうとしたが、彼の痛がる顔を思い出し、その手を引っ込めた。
 遠くで蛙が、泉に飛び込む音がした。

 遊女と別れ、カカはその足で酒場に向かった。女を抱いている間も、人魚の青白い肌や、上下する喉仏の存在が脳裏に渦巻いていた。星のように輝く鱗と、無邪気な表情も一緒だった。
 彼が女であれば、自分はとっくに死なせてしまってただろうと、昨日の出来事を思い返していた。カカは、人魚に友情を感じていた。だからこそ思いやることができた。
 指が触れるだけで痛みに喘ぐのだ。抱けば、その身に射精でもすれば、その激痛は死に相当するだろう。人魚の苦痛を見たのはあの一度だけだったが、その絶叫がしたたかにカカを苛んでいた。
 それは甘美な酒であり、魂を痺れさせ、酔わせた。
 高波との戦い、闇の中の漁のように心を躍らせた。
 身近な死が、カカを興奮させていた。
 ……邪念を振り払うように、頭を抱えて首をもたげた。人魚は、そんなカカの悩みを知らなかった。互いの奉仕を代償行為とすることで、この均衡は保たれていた。
 この友情が愛欲に傾けば、秘密の関係もまた、終わってしまうのだ。

 邪念に誘われてきたのか、酒場を出たカカを追う影があった。彼らは、近頃実入りのいいカカを以前から睨んでいた。夜道をつけ、彼が家に入っていくのを見た。
 秋の風が、木々を揺らしていた。カカは表で火を起こし、魚を焼く準備をしていたが、風が強く苦戦していた。荷物はテーブルに投げられていた。二人の盗人はそっと手を伸ばした。
 しかし、彼らは運が悪かった。突然の強風に家が揺れ、驚いて金の袋を落としてしまった。散乱したコインが大きな音を立てた。驚いたカカが飛び込むと、薄汚い盗人の姿を見つけた。
 火掻き棒を手に彼らを滅多打ちにした。だが、二人を相手にするには分が悪かった。ナイフを握る相方へと振り向いた時には、すでに腹にその切っ先が触れ、横薙ぎに切り裂かれていた。
 部屋中に、赤い血が飛び散った。カカは腹部を押さえてうずくまり、盗人どもは人を切った衝動に奇妙な高笑いをしていた。
 血で赤く染まったコインを拾い上げ、逃げようとした。だが、その場で立ち止まってしまった。
 それは確かに笛の音であり、風に紛れて聞こえてくるようだった。何事かと互いの顔を見返していたが、その表情が笑いに変わった。
 一度人を刺してしまえば、一人も二人も変わらない。奏者となれば、女かもしれない。
 下卑た欲望を胸に、彼らは音のする方へと進んだ。細い獣道を分け入ると、急に開けた場所に出た。そこには小さな泉が存在し、その岸には、体を寝ころばせて歌う人魚の姿があった。水先に尾っぽを垂らすその曲線は、紛れもなく魚のそれだった。
 盗人どもは驚愕し、人魚は飛び上がって泉に隠れた。その存在を確かめようと泉に近づくが、暗くてなにも見えない。
 人魚は怯え、顔を出さずに沈み続けた。
 盗人どもは策を講じた。一度カカの家に戻り、瀕死の彼を拘束した上で傷を塞いだ。あの人魚は本物か、どこで見つけた、などの詰問を投げかける。カカは一言も言葉を発さず、怒りの他の表情は浮かべなかったが、霊薬たる人魚の肉を売れば幾らになるかと密かに語り合うと、殺意のこもった目でそちらを見た。それによりカカの本心が見えた。あの人魚は確かに実在し、この男には、人質としての価値があると。
 盗人は知り合いの狩人を呼び寄せ、森へと同行させた。カカを袋に詰めて引きずる道すがらも、狩人は彼らの話を半信半疑で聞いていた。しかし、カカを泉のそばに逆さ吊りにし、しばらく隠れていると、水面が揺れて濡れ羽色の髪が現れた。狩人は絶句し、弓を取り落としかけた。
 カカは、ひゅーひゅーと弱く呼吸していた。人魚は手を伸ばすが、届かない。風にロープがぎしぎしと揺れた。人魚は涙を浮かべ、何度も跳ねた。静かな森の奥で、水に人魚がぶつかる音が何度も響いた。人魚は喉を震わせて泣いて、カカもうっすらと開けた目に涙を浮かべた。人魚は既に、カカに触れることを怖がっていなかった。
 カカは一度咳をして、血を吐くと、充血した指を人魚の髪へと延ばした。人魚は応えるように、顔を上げて、半身を持ち上げた。
 その胸に、矢が深く刺さった。悲鳴を上げ仰け反った、その腹にも打ち込まれた。
 隠れていた男達が飛び出し、歓声を上げながら泉に近づいた。人魚は血を流して浮かんでいた。髪や首を掴んで引き上げ、人魚は地面に放り出された。尻尾が弱々しく跳ねたが、靴底に踏みしだかれた。嘲りの笑みが見える。彼らは手に手にナイフを持ち、人魚の鱗を剥ぎ落として、肉を裂いた。
 仰向けに切られながら、人魚は大粒の涙を浮かべて、逆さまの空を見た。その先にはカカがぶら下がり、反転した森の中で、最初から逆さまだった彼だけが、正しくそこに立っていた。
 肉を咀嚼する音が聞こえた。血を飲み喉を鳴らす音も聞こえた。人魚は歯を食いしばり、憎悪を込めて三人を見た。薄青い目は爛々と光り、義眼は燃えるように熱くなった。
 男達の体が、ぼこんと破裂した。腹から飛び出た肉片が、牙の形となって男の喉を噛んだ。
 人魚の睨む世界で、彼の体から溢れた血が肉が、因果となって男達を貫いた。己が食べたものに、食われていった。血泥の海で喘ぐように暴れた、その指先一つ残して、周囲は再び静かになった。
 人魚は、傷だらけの体を腕だけで支え、狩人の矢を掴んで投げた。ロープがぶちりと切れ、カカの体が泉へ落ちた。
 這いずりながら、人魚は何度もカカの名を呼んだ。人語は最後まで話せなかったが、人の言葉は好きだったし、なにより、彼の名前を愛していた。片腕で自分の傷をほじくり、肉片を一つ取り出した。
 人魚は、彼にならばその身を捧げても構わないと思っていた。彼にならば、焼かれて殺されても構わないと思っていた。
 彼に、抱いてほしかった。

 水面に浮かんだカカを引き寄せると、その体は氷のように冷たくなっていた。
 口元に擦り付けた人魚の肉は、虚しく水中に落ちた。人魚は泣き、泉は彼の血で濁り、どろりとした闇色に変わった。残響は夜を招き入れ、森は泉に蓋をするように木々を閉じた。

 そして彼は沼地の王となった。
 今でも彼の膝元には、一体の遺骨が沈んでいるという。

おわり
2012/11/20