恋をする魔王



 耳を揺らす遠雷の響きに、うっすらと目を開けた。暗い天井に、降り注ぐ雨のゆらぎが反射して、まるで水の中にいるようだった。
 男は、しばらくそのまま動かないでいた。目を閉じたり、開けたりしながら、寝台に横たわる己の指先を伸ばしていた。
 紺色の闇が宙に浮かんでいる。空気を、すう、と肺に取り込み、吐き出した。窓に叩きつける雨が強くなり、風が壁にぶつかっていった。男は起きあがり、ぼうっとした頭の覚醒を促すように、軽く頭を振る。眉間を軽く揉み、憂鬱な表情で床に降りた。
「……おっ……と」
 急に足が力を無くし、関節から崩れ落ちる。両手でベッドの縁に掴まり、転倒することは免れたが、その腕でさえ軽く震えていた。ずるずると、そのままゆっくり絨毯の上に座り込んでしまう。男は己の足を撫で、次に自分の喉を撫でた。頭痛は更に酷くなる。
「フェイツ様、お目覚めになられましたか」
 ノックの音と共に降ってきた声は、揺れた鈴のように美しかった。顔を声の方へ向けると、不安そうにフェイツを見つめる、色の白い男と目が合った。
「……貴方は」
「私は、悪魔レイニー・デイと申します。魔王アッシュ様より、フェイツ様のお世話を申しつけられております」
 彼はフェイツの前で跪き、カナリアのような黄色い翼を胸の前にやり、丁寧なお辞儀をした。濡れたような黒い髪や身に纏った法衣から、水で冷やした果実のような香りがした。
「長くお眠りでしたから、体が慣れないのでしょう。こちらへどうぞ……身を浄め、傷を癒す必要があります」
 翼をひと振りすると、それは人間の腕に変わった。差し出された手を取り、息を長く吐き出しながら、慎重に立ち上がる。両脚は目に見えて震えていたが、何とか体重を支えることはできた。レイニーの肩に寄り掛かり、一歩ずつ足を踏み出した。
 己の喉をさすりながら、フェイツは隣のレイニーを凝視する。透き通った白磁の肌には、うっすらと青い化粧が施されていた。
「貴方は、魔王様にずいぶんと、気に入られているようだ」
 レイニーは困ったように振り返り、軽く首を振る。
「フェイツ様……そのようなお言葉、魔王様が悲しまれます」
 彼が、心からの謙遜と思いやりを持って、このような言葉を発したことに、フェイツは重い溜息を吐いた。

 冷水で身を浄められている最中、改めて己の膝の先や、鏡に映る首筋を見た。皮膚は伸びて、骨を、筋肉を均一に覆っている。そこには何の継ぎ目もない。指先を軽く持ち上げると、若者の肌は水の玉を弾き、その皮膚の新鮮さを語っていた。髪や体を拭き、香水を振りかけ、与えられた衣装に袖を通す。黒い絹地は肌の上で滑り、腰帯が長く揺れた。
 甲斐甲斐しく世話をするレイニーを見つめながら、フェイツは椅子の上で考え続けていた。頭痛は未だに鈍く続いていたが、硬い蓋をした思想の底の方では、火のような怒りが渦巻いていた。
 黒い法衣に、黒い靴を履き、レイニーに支えられながら廊下を歩く。纏うこの衣装は、大昔の魔界での正装だった。昔自分が着ていたものと、サイズまで殆ど一緒だ。
 分厚いカーテンで閉ざされた窓の外では、雷の音が近づいてきていた。

「魔王様、失礼致します」
 レイニーのよく通る声が響き、ノックとほぼ同時に、扉が左右に開かれた。部屋には長いテーブルが置かれ、その果て、一番遠い場所に、最も豪奢な椅子があった。
 重厚な彫刻のなされた黒灰色のテーブルと同じ色の、美しく磨かれた木の椅子には、金銀と宝石が星や雲のように埋め込まれていた。
 そこに座る魔王は、顔の前で掌を合わせ、にこりと笑った。
「待ち草臥れたよ。本当に……本当に、長かったんだから」
 魔王アッシュは、退屈した子どものような口調でそう言った。レイニーは、向かい合う椅子にフェイツを座らせ、二人に対し頭を下げ、そのまま部屋から出て行った。アッシュがそれと入れ違いに、パチンと指を鳴らすと、窓の外からも廊下からも、一切の音が消えた。
「……フェイツ」
 向かいに座った魔王は、嬉しそうにその名を口にする。
「フェイツ。フェイツ……お腹がすいているだろう。まずは、食事にしよう」
 魔王が手を叩くと、何もなかったテーブルの上に白いクロスが敷かれ、次々と食事が現れた。トン、トン、トン。順序よく、前菜やスープが手前に、メインディッシュやデザートが後方に置かれる。中心には銀器に盛られたフルーツの山が現れ、薄青く光るシャンデリアの下で光っていた。樹木を模した硝子細工には赤い林檎がたわわに実り、その下で葡萄や石榴や無花果が、寄り添うように転がっていた。
 フェイツは黙って、曇りないスプーンに映る自分の顔を見ていたが、やがてナプキンを膝に乗せ、食事を食べ始めた。
 魔王はその様子を見て、どこかホッとしているようだった。自分もフルーツを指差し、大粒の葡萄の房を引き寄せ、一粒取って口に放り込んだ。
 カチャ、カチャ。銀器が皿にぶつかる、軽い音が続く。薄紫に透き通った肉を脇に退け、朱色の葉ものや根菜を食べる。何の変哲もない、魔界の伝統料理だった。高貴な者にのみ許されるよう味ではあったが、魔界にいた頃は毎日のように食べていた。
 懐かしさと言うより、記憶を参考にして過去をやり直しているような、つまらなさを感じた。豆を挽いたスープに口を付け、流し込む。
 アッシュは楽しそうに、その様子を見ていた。フェイツは顔を上げず、淡々と食事をする。注がれた果実酒を煽ると、濃厚な香りと甘さが広がり、脳をジンと痺れさせた。
「……美味しい? フェイツ」
 フェイツはグラスから唇を離し、はじめて魔王に笑いかけた。そして魔王を祝するように、グラスを高く持ち上げ、
「気にくわない味です」
 そう微笑みながら、手を離した。
 カシャン、という軽い音と共に、食事の上に酒と硝子の破片が飛び散った。宙を舞った光の粒は料理の彩りを濁らせ、湿らせ、やがて静止した。
 魔王は軽く眉をつり上げ、苦々しく顔をしかめる。しかし――まるで、劣等生の悪戯に悩む教師のような笑みを、描いた。
「そうか……気に入ってくれると思ったのだが」
 残念だ。
 そう囁き、魔王は指先を顔の前で合わせ、目元を覆った。そして、クックッと、喉の奥で笑った。とても楽しそうに、とても忌まわしげに、笑った。
 フェイツは、魔王が気分を害することも、天井から下がる木の根の存在にも気づいていたので、そのまま黙って目を瞑った。
 根はフェイツの頭をぐるりと掴んだ。そのまま、強い力でテーブルに叩きつける。
 皿が割れ、肉が潰れる。ズル、と一度持ち上げられると、鼻を濡らす血がソースと混ざり、顔を汚していた。根は再び顔を叩きつけ、テーブルに罅が入るまでそれを続けた。
「君はマナーがなっていないな」
 アッシュは目線だけをそちらに向けて、ニヤニヤ笑いながら、鈍く響く打撲の音を聴いていた。
「主宰の前で、そんな失礼をするなんて」
 いよいよ鼻が折れ、切れた額から血が滲んだ時、ふわりと体が持ち上げられた。首や胴体にも四方から根が伸ばされ、縛り上げられる。折れた歯と血を吐き出し、フェイツはスウッと息を深く吸いこんだ。
「折檻だ」
 中空に持ち上げられた胴体が、メキ、という鈍い音を立てた。
 後ろ手に縛られた腕や、肩や、腹部に、螺旋を回すようにゆっくりと、長く太い根が食い込んでいく。
「……フー…ゥ…ッ……」
 苦痛を堪え、長く長く、息を吐き出す。体内で、筋肉が圧力に負けて、潰れたり、折れたり、破裂する音が聞こえる。首を反らし、歯を食いしばる。バキン、と骨が折れた。胴体を軽く揺らし、空っぽの肺が奇妙に鳴った。
「…………」
 アッシュは、白いテーブルクロスの上に、ポタポタと、悪魔の青黒い血が落ちて斑点模様を描いていくのを、じっと見ていた。
 歯の隙間から漏れた血は唾液と交じり、顎や喉を濡らしていく。しかし、目は固く閉じたままだった。口から漏れるのもまた、苦い吐息を吐き出すのみで、それは魔王が望む謝罪でも何でもなかった。
 不意に拘束が解かれ、フェイツはテーブルの真ん中に落とされる。果実の山を潰し、腹這いになりながら、繰り返し咳をする。しかし再び首を木の根に掴まれ、ズルズルと無防備に、魔王の方へと引き摺られていった。
 魔王の眼前で転がる、かつての部下たる悪魔の姿は、猟師に撃ち落とされた哀れな獲物そのものだった。辛うじて息はあるが、自由も、尊厳もなかった。うっすらと瞼を開き、アッシュを見上げるフェイツの瞳には、なんの感情も浮かんではいなかった。
 アッシュは、その血と汚れを拭いてやりながら、微笑んだままで言う。
「私はお前の、謝罪の言葉が聞きたいのだがね」
 アッシュの笑みは、形だけの偽物だった。ただ、そうであるべきように、笑っているだけだった。彼の本心もまた、フェイツと同じように、凍り付いて、また同時に、炎のようにメラメラと魂を炙り続けていた。
「……ああ、それは、どの件に関しての謝罪を……?」
 その言葉が終わらない内に、フェイツは口を噤んだ。目を見開き、鋭く刺された背中から血の流れる感覚と、焼け付くような痛みを感じていた。
「お前が数千年前に、私を捨ててから」
 魔王は木先を剣のように尖らせ、何度も、何度もフェイツの上に振り下ろす。柔らかい肉が、サク、サク、と軽快に切れ、まるで受け入れるようにその肉の花を開かせた。
「私は待った。私は魔界から離れるわけには、いかなかったのに……お前は、戻ってこなかったから」
 血を吐き、テーブルに額を落とし、首を振って繰り返される痛みに堪えた。しかしアッシュはその様子を気に入らず、髪を持ち上げ、喉の奥から血が溢れる様を目の前で見た。
 青く、黒く、夜の色をした血に魔力の粉が浮かんだ、その光彩はアッシュを喜ばせた。魔王は、露のようなにおいのそれを舐め上げ、唇を重ねた。
「ようやく……こうして、戻ってくれくれたのだから。もっと私を甘やかしてくれてもいいだろう?」
 唇が離れたと同時に、深く差し込まれた刃の動きも止まった。見て確かめるまでもなく、剣が腹を貫通しているのは知っていた。ぼたりと、内臓が垂れ下がり、テーブルに乗っているのも、僅かになった感覚器官が伝えていた。ひくつく臓物が、外気に触れて冷えていく。
 フェイツは、深い溜息を吐いた。言いたいことは山ほどあったが、もう、どうでもいいような気さえしていた。
「貴方は……僕様が仕えていた時から、何も変わっていないのですねぇ……」
 頭を持ち上げ、小さく微笑む。浮かんだ感情は、憐憫であり、諦めだった。
 そして、大きな失望だった。
「僕様にフラれた腹いせの方法を、たくさん考えていたのでしょう。これだけ長い間、僕様に恋をし続けて……なのに貴方は、乗り越えられなかったんですねぇ。……フフフ」
 そして、足の指先を軽く動かす。ピクリ、と持ち上がったそれは、すぐに床に落ちた。
「地上で僕様が瀕死になってから、魂の欠片を回収して、魔界に連れ帰って――僕様の肉体を作り直して。ここまでして下さったことには、まあまあ、感謝します。久しぶりに足が動くし、声もちゃんと出るから、それは嬉しかったですからねぇ……。でも、貴方は昔から、アプローチが下手すぎて」
 喉を震わせる。死人のように青白い肌に、侮蔑のこもった赤味が射した。
「ひどく萎えます」
 ぐるり。頭の上半分が木の根に覆われ、一瞬で、押し潰された。熟れた果実が破裂するように、中身が周囲に飛び散った。
 唇は笑った形のまま、ふらふら、と揺らぎ、そのまま仰向けに倒れた。
「……何故、お前は私の愛に応えない。何故……私を愛してくれないんだ……」
 顔を伏せ、アッシュは絞り出すように言った。動かないフェイツの死体の、腹のあたりに、なにか動くものがあった。
 それは飛び出し、部屋中を翔た。羽についた血や汚れを振り落とすように、一羽の燕が天井を回っていた。
「私はこれほどまで、お前を愛しているのに! 何故、私の想いを踏みにじるんだ、フェイツ!」
 燕は、シャンデリアの上に留まった。軽く首をかしげ、赤い胸を張りながら、小さく鳴いた。
『僕様は貴方を愛していないからですよ、魔王様。どんな風に迫られても、貴方が情けなく言い訳している限りは、ずっとね!』
 そしてふわりと飛び立った燕は、窓硝子を通り抜けて、野外へと出て行った。
 嵐はいよいよひどくなり、荒れた空に灰色の雲が浮かんでいる。燕は大粒の雨を礫のように浴びながら、高く高く上がっていった。
 魔王が自分を目で追っていることを知りながら、悪魔フェイツは風に乗り、くるくると回転する。濡れた羽は重く、影は暗く、閉ざされた魔界の空は、どこまでも狭かった。
 彼は最後に魔王へと振り返り、自慢げに燕尾のシルエットを見せつけて、翼を大きく広げた。
 さようならと告げる声は、実に楽しげだった。
 頭から撃ち落とされた雷は、白い閃光となって燕の身を灼き果てた。後には僅かな灰が残ったが、それも雨粒に掻き消され、あっという間に溶けていった。
 魔王は窓辺に立ちながら、その雨と風の音を聞いていた。雲が晴れる気配はなく、黒く重く、空を隠していた。

おわり
 2013/06/09