恋をした魔王



 人間たちがまだ精霊と魔法の世界に親しんでいた頃、悪魔フェイツは魔王アッシュ・グレイ・アップルに仕えていました。アッシュは、突如崩御した父王に代わって若くして魔族の国を統治しており、フェイツは彼の腹心の一人として、また年若い王の家庭教師として、お城で一緒に暮らしていました。
 魔王アッシュはひどく孤独でした。彼は方々の土地を統べる四対の魔王の中で最も若く、力が無く、他の魔王達からはひよっこ扱いされていました。部下である筈の他の悪魔でさえ、彼と父王を比べて溜息を吐くばかりでした。彼が美しい青年の姿に成長しても、どこか頼りなさが残っていました。
 悪魔フェイツは気を揉みました。彼を大人にしなければならない。今は亡き父王様の跡継ぎを育てる教育者として――フェイツはある日、アッシュを夜の部屋へと誘いました。
「貴方は知らなくてはなりません。大人の責任を知るために、大人の遊び方を……ね」
 それはなんと悪魔的な、甘美な囁きだったのでしょうか。フェイツは元々、愛欲を司る悪魔でした。彼は淫欲を司る「桃色の硝子玉」を操り、魔王にのびやかな淫夢の魔法を掛け、一夜を共にしました。自ら積極的にリードし、わざと肌と肌をくっつけるようにして。彼自身内心、気弱な魔王を小馬鹿にしていたのかもしれません。その浅はかな考えが今後の彼の運命を狂わせ、非常に複雑な恋の沼へと陥れることになることを、まだ知らなかったからです。
 そして魔王が、今までもずっと、フェイツのことを見続けていたことも。寂しさを紛らわせるための憧憬にも似た想いが、いつしか別のものへと変わっていたことを、知らなかったのです。
 ――その夜が明けても、魔王は執拗にフェイツに迫りました。フェイツは「既に魔法は解いた筈」と訴えますが、「この愛は本物なんだ」と彼は答えます。
 本来であれば、一悪魔の呪いなど、魔王にとっては煙のように消せるもの。しかし、万一彼に影響が残っているのであれば問題だと、フェイツは呪いを掻き消す「水色の硝子玉」を使います。
「魔王様、貴方は夢を見ているんですよ。こんな茶番はお終いです、早く夢から覚めて下さい」
「フェイツ、聞いてくれ。お前の魔法はもう解けているんだ。私は本気なんだ」
「いいえ、ならば貴方がこの様に、戯れ言を申される筈はありません。魔王が悪魔を、塵芥の兵の一人を寵愛するなど、あってはならないことなのです。口をするだに、恥ずかしい、そんな言葉を」
「……私は、」
「どうぞお気を鎮め下さい。私が浅はかでありました。偉大なる魔王様に、一夜でも呪いを掛けようなどと! お許し下さい。どんな罰も受けましょう。ですから、そのお言葉を撤回して下さい」
「私は本気で、」

 お 前 を 愛 し て い る 。

 その瞬間、フェイツのなかで重大な何かが、音を立てて壊れました。
 愛欲の呪いは解けている。それはそうだろう。当然だ。魔王たる者、本気で乱れる筈がないのだ。喩え呪いに、掛かっていたとしても。そして同時に、鎮熱の呪いも無意味なのだ。彼はそんなもの、歯牙にも掛けないのが普通なのだ。
 ならば 彼の言葉は 彼の本心だ。

「魔王とも、あろう者が……」
 牙で硝子玉を捕まえ、歯を食いしばった瞬間それに罅が入ります。
「醜い、欲に、踊らされて……」
 表情がみるみる変わっていきました
 そこには憤激と、軽蔑と、失望が確かに浮かんでいました。
「……そんな安い言葉を……」
 唇の奥から、ガキンという硬い音が響き、パラパラと、水色の硝子粉が闇色の部屋の空気に落ち、吐息が霊気となって漏れます。
「このフェイツに吐きかけるなど、屈辱の極みだ…!」

 魔王は彼の顔から、言葉から、彼の感情の全てを知りました。
 彼にとってフェイツは、父王を失った後即位した自分を支え、導いてくれる、兄のような存在でした。決して裏切らない、側から離れない、“信頼(faith)”できる存在だと。迷子のような切実さで、彼に縋っていたのでした。
アッシュは、魔王となるには、優しすぎたのかも知れません。甘く、純粋で、汚れのない感情は、人の世かいっそ天の国に在るべき想いだったのかも知れません。
 あの一夜で彼は愛欲の制御を失い、それは津波のように溢れました。
 しかし彼は、魔王の手を振り払い、その否定の刃は、彼の心を裂きました。

 魔王の腕がフェイツの首を掴み、その喉を砕きます。藻掻く足を踏み潰し、飛び去ろうとする翼を引き裂きました。
 黒い血で濡れた掌が、めくれた喉骨に触れた瞬間、静かにそれは落ちました。転がる首を拾い上げ、魔王はその顔を覗き込みました。
「……お前を殺してしまいたい……こんな想いを、終わらせたい……」
 フェイツはゆっくりを瞼を開け、血で濡れた唇で笑みを作ります。
「……そうシ、…て、クダ、サイ。さあ、早ク……」

 悪魔は恋をしない。悪魔は泣かない。悪魔は迷わない。それは醜く、恥ずべき、死への階段だから。
 しかし、魔王は? 彼が頂点です。愛そうと泣こうと、勝手でしょう。
 ただし、その愛に応える者もまた、どこにもいないのでした。



 羽が折れ、足の千切れた燕を、魔王は地獄の川へと流しました。
 それで終わりなら良かったのですが、魔王はそれから何千年も何万年も、痛み分けで終わった初恋の幻影に囚われ、苦しむことになります。
 失望されたのに、失望することができなかった男。
 捨てられたのに、それを認められなかった男。
 彼はその一件以降、徐々に魔王としての才覚を露わにしていきますが、胸に残っていた僅かな甘い恋の華は、千々に砕けた後でした。

おわり
2013/01/15